問題 :着物の名称として江戸時代から存在するのは?〜令和8年7〜9月号〜

答えは①振袖
①振袖という言葉が現れるのは江戸時代初期のことです。ただし当時の「振袖」は現在のような袖丈の長い着物を意味したのではなく、袖下が身頃に縫い付けられていない「振り」のある小袖を指しました。これは主に子どもや若い未婚女性が着用したものです。
江戸時代中期以降になると袖丈が次第に長くなり、現在の振袖につながる長い袖の様式が広まりました。
②訪問着は明治から大正時代にかけて、訪問用の社交着(洋装のビジティングドレスと同格)の着物として広まった「訪問服」を源流にしています。現在のような絵羽模様の「訪問着」として定着したのは昭和以降と考えられます。
③江戸小紋の技法や様式は江戸時代の裃小紋(かみしもこもん)に由来しますが、当時「江戸小紋」という名称は存在せず、「裃小紋」「小紋型」などと呼ばれていました。
1954年(昭和29年)文化財保護委員会より江戸小紋型染の小宮康助が重要無形文化財技術保持者として認定されるに際して「江戸小紋」という名称が誕生したとされます。翌1955年(昭和30)の重要無形文化財指定によって広く定着しました。
問題 :豊臣秀吉の家紋と言えば桐( 五三桐・五七桐・太閤桐)ですが、桐以前に使っていた家紋は? 〜令和8年4〜6月号〜

[答えは①沢瀉(おもだか)]
①豊臣秀吉の紋と言えば「五七桐(ごしちのきり)」のイメージですが、これは正親町(おおぎまち)天皇より「豊臣」姓を賜った時からです。その前の羽柴秀吉の時は織田信長より「五三桐」を拝領、更にその前の木下藤吉郎の頃は「沢瀉紋」を使っていました。
沢瀉紋は福島正則(福島沢瀉)、豊臣秀次(立ち沢瀉)など秀吉と縁の深い武将に引き継がれました。
②瓢箪は秀吉の馬印で、家紋ではありません。
③豊臣秀吉の正室である北政所(ねね)が秀吉の菩提を弔うために建立したのが京都の高台寺。その霊屋(おたまや)には「高台寺蒔絵」と呼ばれる蒔絵装飾が施され、花筏(はないかだ)文様が有名です。
問題:「日本で生まれた模様は?」
令和8年1〜3月号

[答えは③ 橘]
●牡丹唐草(ぼたんからくさ) 唐草は蔓草が絡み合って曲線を描く模様。ギリシャ・ローマ様式のパルメットやオリエントの様式が絡み合って変化し伝播していったと考えられています。これが中国原産の牡丹と結びつき「牡丹唐草模様」となりました。日本には少なくとも鎌倉時代には入ってきていて、室町時代には名物裂として珍重されました。
●七宝(しっぽう)七宝(しっぽう)は、円を等間隔に重ね、円周の四分の一が連続して現れる割り付けの文様です。平安以降の有職文様(ゆうそくもんよう)では同系の意匠が「輪違い」と呼ばれます。連続する円が「無限のつながり」「調和」「円満」を象徴する吉祥文様で、仏教美術の影響を受けつつ大陸から伝わったと考えられています。
●橘(たちばな)正月の鏡餅の上にのせられる蜜柑(みかん)は、古代日本において「橘(たちばな)」と呼ばれた果実に由来します。橘は『古事記』『日本書紀』にも登場し、不老不死の理想郷である「常世(とこよ)の国」に自生する植物として語られました。このため、橘は古くから不老長寿や子孫繁栄を願う象徴とされ、吉祥の果実として尊ばれています。
平安時代には、橘は日本独自の文様として整えられ、装束・調度・建築装飾などに広く用いられるようになりました。今日でも、橘は由緒ある家紋や宮中の紋章などに用いられ、日本文化に深く根ざした象徴として受け継がれています。
※参考文献:「きものの模様」世界文化社 ほか
問題:「破れても小袖」の意味は? 令和7年10〜12月号
A、物を直して大切に使い続けること
B、いつまでも縁が切れないこと
C、状態が悪くなっても価値を失わないこと
[答えはC ]
本当に良いものは状態が悪くなっても、本質的な価値は失われないという意味。
ここで言う「小袖」は絹の着物のこと。江戸時代、絹の小袖を新調できたのは一定の経済力のある武士や裕福な町人に限られました。これらが着古された後に古着屋で流通するわけですが、絹の小袖は木綿や麻の着物に比べれば「はるかに高価」でした。
